原作漫画の第2巻・第14話までのネタバレを含みます。
『キングダム』の漂(ひょう)は、信と木剣で競い合い、ともに天下の大将軍を目指した戦災孤児です。秦王・嬴政(えいせい)に顔が似ていたため、王弟の反乱で政の身代わりを務め、命を落とします。信がその最期を見届けたあとで、物語は少しずつ、漂が村を離れていたあいだのことを明かしていきます。
第14話。崖から昌文君が落ち、護衛の兵たちがもう助からないと思ったとき、隊列を組み直すよう声を上げたのは漂でした。
その姿を信に語る壁(へき)は、馬上の少年の正体を知っていました。壁を奮い立たせたのは、王に似た顔よりも、まだ包囲を抜ける手があると知らせる漂の声だったのだと思います。
壁は戦場の漂に何を見たのか
壁は副長で、漂が身代わりだと聞かされていました。その壁が、馬上の少年にはもう将の風格があったと信に語るのです。
ほかの兵からすれば、王の姿で指図する人に従うのは自然なことです。一方、壁には、その少年に命令を下せるような地位がないことも見えている。同じ馬、同じ剣、同じ号令でも、事情を知る壁が見たものを聞くと、漂自身の働きがくっきり浮かびます。
馬車から出てきた少年が、兵に行き先を示す
昌文君を見失ったとき、壁の目の前では、王の馬車にまで敵兵が迫っていました。そこから漂が飛び出して馬に乗り、隊列を立て直し、密集して包囲を破るよう兵に指示します。壁にとって驚くべきことは、助け出すつもりでいた相手から、自分が助かるための指図を受けたことでしょう。
私はここで、漂の指示にちゃんと中身があるのが好きです。絶望しかけた兵の一人ひとりに、勇気を出せと言って回る時間はありません。
隣にいる味方と間を詰める。それなら、次の瞬間に自分の体をどう動かせばいいかがわかります。壁は漂の声で兵が戦う気持ちを取り戻したと語りますが、その声が届いた理由は、声の大きさ以上に、まだみんなで取れる手があると示したことにありそうです。
逃げられそうになっても、昌文君を置き去りにしない
突破の望みが出てくると、漂は壁に、兵の一部を昌文君の救援に回すよう働きかけます。昌文君が政に必要な人物だからです。
やっと自分たちの命に望みがつながったところで、目の前から姿を消した人のことを考えている。兵を励ました場面と並んで、漂に将の器を感じるのは、この一言があるからです。
やがて別の敵が現れると、漂は一騎でその方へ向かい、壁たちへの追撃は弱まります。壁が振り返って見たのは、漂が敵を引き受けて戦う姿でした。合流先でまた会えると思っていた壁は、後になって信から漂の死を知らされます。
兵を救ったという結果を知る私たちは、つい、一騎で向かった時点でもう死ぬつもりだったと読みたくなります。けれど、壁が語ってくれるのは、生き延びようとしていた一隊と、そのために動いた漂のことです。彼が生きて合流する余地まで、結末を知る側から奪いたくありません。
信と漂は、どんなライバルだったのか
自分と信を比べた結果と、信が別の誰かと戦ったときの見込み。漂にとって、この二つには違う答えがあるのです。
試合で手を抜かれた覚えはなく、自分の一勝にも胸を張れる。だからこそ、信が自分を越えそうなところを、引け目もおべっかもなく王に話せるのでしょう。
勝ちを数えて自慢する漂と、その肩を借りて帰る信
兵たちの見た少年も、村では木剣の勝ち越しを喜んでいた子です。第1話の打ち合いで一本取った漂は、勝ち、負け、引き分けをそらで数え上げます。しかも勝ち越した分まできっちり勘定に入れる。
これだけなら何とも負けず嫌いですが、直後には、痛がる信に肩を貸して一緒に帰っています。信の方は、一人で歩けると文句を言う。馬上で兵を鼓舞する姿からは想像しにくい、気のおけない二人の帰り道です。
あの一勝を漂がさも愉快そうに数えるからこそ、第3話での信の紹介が生きてきます。王宮で政からどちらが強いのかと聞かれた漂は、二人で試合をすれば互角だと答えます。
そのうえで、自分には勝てないような強い相手にも、信なら勝つと話すのです。村であれだけ手合わせを重ねてきた漂にしかできない、少し変わった褒め方ではないでしょうか。
半ばあきれたような政の反応に、漂が笑って応じるひとこまもいい。下僕の少年と秦王が、ほんの一瞬、同じ厄介な友達の話で笑っているように見えます。
漂一人に来た誘いを、二人はどう受け止めたか
二人の大将軍という夢には、戦で手柄を立て、自分たちの暮らしを変えるという切実な理由がありました。里典の家では食事の出来ひとつで信が責められます。
そんなところに昌文君が王宮の仕事を持ってくる。漂がまず信も連れていこうとするのは、これまで自分と同じだけやれる相棒と力を磨いてきたからでしょう。ところが、必要なのは漂一人だと告げられます。
この夜の信は、漂が自分に遠慮して断るつもりかもしれないと考えます。漂の口からはっきりと王宮へ行くと聞いたとき、信は一瞬目を見開き、それから笑う。
自分のために好機を見送るかもしれないと案じていた信が、相棒らしい返事を聞いたときの顔です。ここで漂を引き止めたら、信は、大将軍になってみせると一緒に言ってきた相手に、その最初の一歩だけは踏み出すなと言うことになります。
印象に残るのは、二人が別れの言葉を立派に飾らないことです。しばらく手合わせができなくなるなら、今度の一戦を何勝分にするか。信が値をつり上げ、漂が押し戻して、また木剣を構える。
身分の違いが生まれようとしている晩にも、目の前の一勝の値打ちだけは二人で決めるのです。信が失った日常の大きさは、こういう小さなやり取りにこそ表れている気がします。
漂はなぜ、嬴政の身代わりを引き受けたのか
第6話の回想では、昌文君が脱出のための備えを説明します。政はそれに口を挟み、自分と間違われて漂が殺される可能性を、本人に向かってはっきりと告げます。
漂はその場ですぐに勇ましい返事をするわけでもありません。頭を下げたまま間があき、昌文君は声も出ないのかと思う。そこで漂が確かめたのは、自分が口をきいてよいか、ということでした。
この間があるおかげで、村から来た少年と大王の距離がよく伝わります。命を懸けるかと問われる当人が、顔を上げて意見を言うにも許しを必要としている。
漂はそこで、自分が大任を任されたことに驚き、友と抱いている望みを政に明かします。王には守りたい王位があり、漂にも自分の名で成し遂げたいことがある。政は自分の立場から危険を伝え、それを引き受ける理由は、漂が自分の言葉で答えています。
王宮へ行く決断と、王の身代わりになる返事には間がある
昌文君が村で話せたのは、王宮で責任のある仕事についてもらうというところまででした。身代わりの危険について話し合うのは王宮でのことです。
ですから信に王宮へ行くと告げた夜の漂に、すでにこれが信との最後の晩かもしれないと覚悟していた、と考えると、あの木剣のやり取りまで違ったものに見えてしまいます。あのとき二人の前にあったのは、まだ中身のわからない、大きな機会でした。
漂が王の前で思い描くのは、馬を並べる二人の姿
返事をする場面に挟まれるのは、二人が将の装いで馬を並べ、背後に兵を従えている絵です。村では口に出していた大将軍の夢が、王宮では、いま引き受ける仕事の重さを測る物差しになっています。王のためなら自分はどうなってもよいという忠義だけでは、ここで漂がわざわざ信との夢を持ち出す理由を取りこぼしてしまいます。
一方で、これを立身出世のために危険な賭けをした話だけにしてしまうのも惜しい。いざ脱出が崩れた場面で、漂は自分の手柄を誰に見せるかなど口にしません。
兵を立て直し、王のために昌文君を救う手を考えています。夢をかなえようとする野心と、引き受けた相手のために働く誠実さは、一人の少年の中にどちらもあったと読めます。
そして、その返事は漂自身のものでも、身代わりを必要としたのは王の側でした。信が小屋で政を責めたのは、友の代わりに生きている人が目の前にいたからです。
あとから王宮での会話を知れば、漂が事情を何も知らずに送り出されたという見方は変わるでしょう。それでも、友が戻らないという信の怒りには理由が残ります。漂が何を選んだかを理解することと、信がその死に納得することには、ずいぶん距離があります。
最期の漂は、なぜ信に地図を渡したのか

深手を負った漂が信のもとに帰り着いたとき、信は大声で医者を求めます。まだ、漂のために何かできると思っているのです。
ところが漂が頼むのは、自分のそばを離れ、黒卑村へ行くことでした。地図を渡された信には、そこに誰がいるのかも、行くことで何が変わるのかもわかりません。信は引き受けながらも、二人で大将軍になると言ったではないかと泣きます。
一方、政の側には別の事情があります。漂から、自分が倒れたときには信を頼ってほしいと、先に話を聞いていたのです。
漂が政に買ってほしかったのは、稽古での勝ち星より、格上の相手を前にしたときにこそ出てくる信の強さでしょう。地図が用意したのは二人が会う場所で、王宮での会話が用意したのは、そこで政が信に期待をかける理由でした。
黒卑村へ向かう用事と、二人でかなえたい願い
漂 「俺を天下に連れて行ってくれ」
この言葉で胸を突かれるのは、先を行く者と追いかける者が、村で別れた晩と入れ替わっているからです。あの晩は、先に王宮に行く漂を信が追いかけるはずでした。最期の漂は、自分を連れていく方を信に頼みます。
漂は最後まで、自分もその先へ行くつもりで話している。だから、信が自分の夢を追うとき、漂にも一緒に行ける場所がある。
もっとも、直後の信にその言葉どおりに生きる余裕はありません。怒りにまかせて家の壁を殴り、漂の仇を取ることを口にします。
その信に声をかけるのが、ふだんは信をばかにしていた里典の子です。彼に漂の死を無駄にするなと促されて、ようやく信の手が地図へ伸びる。
人を動かす最期の言葉というと、聞いた瞬間に相手が立ち上がる場面を想像しますが、ここにはひと呼吸あります。そばで口を出してくれる誰かが必要なほど、信は動けなくなっていたのです。
漂は信に地図を渡し、政には信の話をしていた
黒卑村で信が会うのは、亡くしたばかりの友と同じ顔をした嬴政です。政を追ってきた刺客は、自分が致命傷を負わせた少年がなお逃げおおせたことに驚きます。
漂が何をするために村まで帰ったのか。信は地図の先で、その問いへの答えと、友を身代わりにした王にいっぺんに出会ってしまいます。政に食ってかかるのも無理はありません。
このすれ違いには、村での手合わせが少し意外な形で役に立っています。政にしてみれば、信は会ったこともない村の少年です。その少年を推薦してくれたのは、信と何百回も木剣を交えた相手でした。
それでも、信が政と行く理由まで漂が決めたわけではありません。第7話で同行を告げた信は、友のことを忘れるつもりも、王にひざまずくつもりもなく、二人の夢のために政を利用するのだと言います。
礼儀とはだいぶ遠い言い方ですが、王様の前でそこまで言える信を知っていたから、漂の笑顔にも説得力があったのだと思います。信を頼れと願った漂が王に紹介したのは、人の言うとおりに振る舞う、扱いやすい助っ人ではなかったのです。
漂の戦いを聞いた信は、なぜ将軍への道を尋ねたのか
壁が語り終えたあと、漂を立派だと改めて思う信には、一つ困ったことがあります。漂と二人でいるあいだは、これから何をすればいいかを、漂の方がいつもわかっている気がしていました。もう彼に聞くことはできません。
そこで信は、政が王宮に帰れたら自分をどうしてくれるのかと切り出し、ついには将軍になる方法そのものを尋ねます。王を名前で呼ぶのに驚いた兵が騒ぐそばで、本気でいちばん初歩のことから教わろうとする。いかにも信らしいやり方です。
政たちの答えを聞いて、信が立ち止まるところも面白い。政からは、戦場で抜きんでた働きをすれば身を立てられると教えられる。
ところが、徴兵の対象になるのは、戸籍に載り、一定の財を持つ家です。住む家さえ持たない下僕の信は、そもそも戦場へ出られないと昌文君が告げます。村でどれほど真剣に剣を鍛えても、それだけで戦場に立つ資格が生まれるわけではなかったのです。
それを聞いた信が王に求めるのは、土地と家と財です。政が王座を取り戻したら自分にそれだけのものを与え、下僕の身分を解いてほしいと持ちかけます。
戦う腕は自分で磨いた。足りないものは今、政たちに聞いてわかった。村では漂の後を追えばよいと思っていた信が、わからないことを人に尋ねて、自分で交渉するところまで来ています。
壁の話には、漂のすごさばかり聞かされて、信が置いていかれるような寂しさもあります。なのに話を聞き終えた信がするのは、漂なら何と言ったかを誰かに尋ねることではありません。ここで自分が何をしたらいいかを、自分より事情を知っている相手に聞くのです。
第1話で漂が二人の夢を信に託したことが、ようやく信自身の問いになった。私にはこの遠慮のない相談が、二人で交わした約束への、信なりの返事に思えます。
漂を思い出すとき、壁の話を読み返したくなる理由
第1話で漂が目を閉じた時点では、信も読者も、王宮へ行って帰ってきた少年が何をしてきたのかをほとんど知りません。政の記憶には、身代わりの危険を聞いても友との望みを口にした漂がいる。
壁の記憶には、自分たちが諦めかけたとき、隊列を組み直させてくれた漂がいる。信がいちばんよく知る友達にも、信の知らなかった顔があったのです。
それでも私が最後に思い返すのは、漂が一騎で敵へ向かう直前、ほんの少し目を閉じて、信に力を求めるところです。村の信には、その声は聞こえません。
あとになって兵から武勇を語られるほどの働きをした少年が、あの一瞬に頼りにしたのは、試合で一勝でも負け越すとむきになる相棒でした。次に第1話を開いたら、漂が得意顔で勝ち星を数える場面を、前より少し長く眺めていたくなります。

コメント